3月11日にあったこと




3/29の夜〜4/2の朝まで
気仙沼で足湯活動をしてきました。


参加してよかったと思うし、
自分の目で見て肌で感じて
現地の人の話を聞いて思いを聞いて。
足湯に来てくれたおばあちゃんは
涙を流して喜んでくれた方もいて。


でも、
ボランティアによって傷つけられたという方もいた。
また考えることが増えた。
偽善ってどこまでが偽善なんだろう。


ボランティアに行ってきたということを
自分の誇りにしたいからボランティアに行く人がいる。
そしてそう思われることを恐れて
又はそんな人とは一緒に行きたくないという理由で
ボランティアの意志はあっても行かない人がいる。


でも、それはちょっと違うんじゃないか?
確かにフェイスブックに写真を載せたり
mixiツイッターでボランティアのことをつぶやいたりしたら
偽善者だと思われたりすることもあるだろう。
でも、現地の状況や様子は、やはり色々な人の目に
まだまだ触れなくてはいけないことだし
自分が情報発信することによって
また地震のことについて考えたり思い出したりしてもらえるのは
大切なことだと思う。


そう思う理由は、、、
現地の人は、もうぶっちゃけボランティアは必要ない状態らしい。
それでもまだボランティアを募集してたりするのは
「忘れられたくないから」なんだという話を聞いたからだ。
くわえて、
津波で家を全て流されたという方がいて
その方が車で自分の故郷を案内してくれて
家の前までいって「ここが私の家です」と平然と言って
車から降りて「ここには駅があった」などと、
いろいろと説明してくれたことがあった。
普通なら思い出すだけでも辛いだろうに、
そんな場所に平気で私たちを連れ出し、案内までしてくれて、
そんなに冷静でいられるのはなぜだろうと考えてみた。
これはあくまでも私の考えた結果だが、
やはり私たちのように初めてこの地を訪れる人に
現地の状況を知ってほしいから、
辛くても悲しくても頑張って説明して、
わかってほしいのではないだろうか。
いつまでも忘れないようにしてほしいのだろうと思う。
それなら、色々な人に写真を見せたり状況を伝えたりしたら
それが被災された方のためにもなるんじゃないかと思う。


シンプルに考えたら、
ないよりはあったほうがいい。
知らないよりは知るほうがいい。
伝えないより伝えた方がいい。
そういうことなんじゃないだろうか?


それを複雑に考えて、
ないまま、知らないまま、伝えないままにしておいたらどうなるのか?


何十年後かには忘れられているかもしれない。


行くか行かないかで
その人の心の中に残る記憶の重みというものは
全く違うものになるだろう。